先日、私のアルバムレコーディングでいつもお世話になっていたベーシスト、岡雄三さんがお亡くなりになりました。
今日は最期のお別れをしてきました。
岡さん、ぶっちゃけ今どこにいますか?
昨夜、うちに来ました?夜中、お線香の香りがいきなり漂ってきたんですけど。
それから今日は、告別式が終わって、岡さんが空に昇っていく頃、私はお家に着いて、満開の薔薇にお水を与えていました。
そこへ、この地域では全く見かけない珍しい【青い蝶々】が私のお庭にふと遊びに来て、すっと去って行ったんですけど、もしかして岡さんでしたか?
まだ地球にいますか?
もう天国へ行ってしまいましたか?
岡さん、淋しいです。まだお別れの言葉言えないです。会いたいです。
訃報を聞いた時は、わんわん泣きました。
松本英子ちゃんが、フェイスブックの情報を教えてくれて、そこで私の涙を受け止めてくれました。
ただただ信じられなくて、口だけの自分に、今度。いつか。と、次があると呑気だった自分に、悔しくて情けなくて卑怯者!と、お風呂の中でもずっと泣きました。
そして今日、英子ちゃんが告別式に連れて行ってくれました。
( 英子ちゃん、今日は本当にありがとうございました。感謝でいっぱいです。)
正直、よくわかりませんでした。あんなに流れた涙は、嘘みたいに流れませんでした。
一体、みんなで喪服を着て何をやってるんだろう。
沢山のミュージシャンと沢山の音楽業界の人間が、みーんな喪服を着て集まっている。
みんなで岡さんの遺影を見ている。
私一人だけ理解出来てないような、一人実感が湧かずにただ紛れていた感じでした。
メガネも忘れ、誰が誰だかもわからない。岡さんの遺影も全く見えなかった。
見えたのは、ただはっきり見えたのは、棺の中で眠る岡さんでした。
でも、安らかに眠る岡さんを見ても、ここにいるのに、目の前にいるのに、なんだかもうここには居ないような不思議な感覚でした。
前日までも、香典袋を用意したり、着ていくものを探したり、カバンが無いと焦ったり、手作りの数珠を持って行こうと張り切ったり、なんだかそれらすべて、意味を全く理解していないような私がいました。
ベースを主体に音楽を聴いてる私は、お気に入りのベーシストが幾人かいます。岡さんはその中の一人でした。
エンジンのようなうねりを効かせて底から迫り来るグルーヴは、もう私をただの一音楽ファンの素人にさせるほどカッコ良かった。
初めてレコーディングで共演した時、スタッフと「あのベーシスト凄いよね!」と言い合うほど、名前より先に演奏で印象に残ったプレイヤーでした。
演奏は物凄いかっこいいのに、人柄はとても優しくて優しくて、紫のような青のような素敵な色のベースを触らせてくれて、ニコニコ静かにスタジオで笑っている人。それが岡さんでした。再会すると嬉しそうにしてくれたのも、とても嬉しかった。
去年の今頃、私の最新作「ブライニクル」のレコーディングで、私は岡さんと久々の再会を果たしました。
ご病気を発症されて即手術をして即復帰したのが今から2年前。「ブライニクル」は、復帰して半年後のレコーディングでした。
「声を失いました。」という筆記での岡さんの言葉に、私はどんな言葉を返せばいいかとても戸惑いました。
耳も聞こえなくなって腕も動かせなくなって、声も出せなくなって、ご飯も食べられなくなると告げる医者から、サードオピニオンで耳も腕も命も助けてくれるお医者さんに出会えた!というお話を聞いて、声は失ってしまったけど、岡さんの生きがいのベースが残って良かった!…いや、良くない。ああごめんなさい。って、泣きながら言葉を沢山積み重ねて、必死に想いを伝えたのを覚えています。
つまらない私の楽しみの殆どが食べること。
その食べることが出来なくなることがどれほど悲しいか、想像することは不可能でした。
そして声を失うということ。
私はボーカリストです。岡さんでいうベースを奪われることに匹敵するかもしれません。だけど岡さんはベーシスト。ベースを弾く腕と才能は残すことが出来た。岡さんの声はベースだもん。ベースで沢山歌ってください!って、KYなことを言ってるかもしれないけど…、と必死にエールを送りました。
その時のレコーディングは新しく出来たスタジオだったので、レコーディングの合間に岡さんと別フロアを探検しに行ったりしたのを今思い出しました。楽しかったな。
ツイッターでも、後日いい曲だったって呟いてくれて、レコーディングが終わっても完成を待ちわびて下さっていたのがとても嬉しかった。
そしてある日突然、「生意気なこと言ってすみません、一緒にライブやりたいです!」とメールを下さった。
「生意気なんてとんでもない、光栄です!」と返し、「ただ次のツアーは決まってて、その後が白紙だから企画しなきゃですね!いつか機会があったら是非是非お願いします!!!!」こんな感じで私は返したのです。
いつかなんて、来ないのに。
メールはそれきりで止まったままでした。訃報を聞き、振り返れば一年の月日が経っていました。
私は、この私の「いつか」を思い出し、とても腹立たしく、訃報を聞いた時の一番の感情は、自分への怒りでした。
口だけの嘘つき。
共演する日なんて、来ませんでした。
復帰後の岡さんの活動は、目まぐるしかったです。
毎日のようにライブをしているような、レコーディングしているようなツイートが並んでいました。
復帰後一年経った時の呟きも、今思えば、岡さんの色んな感情が含まれていたんだとわかります。
だけどそれを全く気づく事が出来ませんでした。
岡さんと同じ病気になり、同じように声を失ったアーティストがいて、でもそれだけの犠牲を払った分、その方は完全復活したように元気にご活躍されていたので、声を失ったけど元気そのものの岡さんとの再会に、私は全く疑いませんでした。
これからもずっとずっと続いていくと思っていました。
だけど時計は止まってしまいました。
岡さんは、最後までプレイ出来る人生の選択をしていたようです。
だから、私のメールを読んで、きっと「淳ちゃん、いつかはないんだよ。」って思っていたんじゃないかなと思います。
復帰後、今まで以上に目まぐるしくステージに立ち続けたことこそ、岡さんの命をかけたメッセージだったんだなと、今更わかりました。
愚かだなって。
いつかとか、今度とか、どこにどんな保証があるというのか。
いつまでも生きているわけではない。自分も相手も。
いつ何時どうなるかわからない。本当に明日どうなるかわからない。自分も相手も。
そんな人生を歩んでいることに、どうして未だに気づけないんだろう。
プロデューサーの松浦晃久氏が声をかけてくださいました。
私の世界に岡さんのベースを鳴らして下さったのも、岡さんのベースを教えて下さったのも松浦氏です。
私の最新作に岡さんの音が入ってて本当に良かった。本当に感謝しています、ありがとうございました。と途方に暮れながら伝えました。
そしてもう一人、プロデューサーの河野伸氏にも。
放心状態の私に声をかけてくださいました。
河野氏も松浦氏も、私と同じような感覚だったようで、ただただ告別式をどこか他人事のように立ち尽くして見ている私を受け入れて下さいました。
他にも、お世話になってる方々に声をかけて頂きました。
全然、無反応ですみませんでした。
告別式には、音楽人間ばかり。
共演したことのないアーティストや初対面の人も沢山いたけれど、皆、岡さんで繋がっている人々なんだと実感しました。
そして、やはり同業者なんだな、と、一体感のような同志のような、何か我々だけの言葉なくとも伝わる独特の世界がそこにはありました。
私もその中の一人なんだと、ミュージシャンなんだと、岡さんと同じ世界にいた自分が少し誇りに思えました。
明日がある?いいえ、明日はありません。
私達は、常に「今」を生きてるだけです。
過去を引きずり、いつまでも過去を生きてる人がいたり、
未来を心配して、未来を生きてる人がいたり。
今を生きてる人って、本当に少ない気がします。私もです。
明日はない。今しかない。いつかはない。今度は来ない。
もうこんな想いをするのは嫌です。
どうぞ、私みたいな想いをみなさん抱かないでください。今を生きてください。
お家に帰ってきたら、ロックが外れてきたみたいで、ようやく涙が溢れてきました。
岡さんとは素敵な想い出だけしかないことに気づくたび、涙が溢れてきます。
今でもツイッターアカウントは、私をフォローしてくれています。
どうしてもまだそこにいるとしか思えないのです。
私が霊能者だったらな。
透明人間になった岡さんが見えるのに。
ごめんね、岡さん。全然見えないの。
目の前で美味しいエッグタルト、みんなで食べちゃってごめんね。
天国で美味しいもの沢山食べて待っててください。
もうちょっとだけ待っててください。
共演しましょうね。必ず。
また会いましょう。
柴田淳を可愛がって下さって、本当に本当に有難うございました。
幸せでした。大好きでした。
最後に、昨年のレコーディング風景写真を。
スタジオTanntaのオーナーさんと、松浦晃久氏、岡雄三氏、山木秀夫氏。
岡さんがビンテージもののギターを弾く、貴重な瞬間まで撮ってました!私。(^^)